「太陽待ちの」
高尾山は、東京都心から電車で約一時間というアクセスの良さもあり、四季を通じて多くの登山客で賑わう標高599mの山。年間の登山者数は約260万人と富士山を遙かに超えて世界一の登山者数を誇る。行楽地として特に有名だが、元来は修験道の霊場であり、そのために天然の森林が歴史的に大切に守られてきた。その甲斐あってか2007年(平成19年)から連続してミシュランガイド最高ランク「三つ星観光地」にも選出されている。気軽に登山できるケーブルカーの傾斜は31度18分と、日本一の急勾配。また、二人乗りリフトも平行して設置されておりスリルと絶景を肌に感じることができる。冬至の前後数日間には富士山の真上に太陽が沈むという、貴重な「ダイヤモンド富士」を山頂から見ることができる。
私ね、今度ダイヤモンド富士を見に行くの!ねぇ、ダイヤモンド富士って知ってる?
そう得意げに話す私に投げかけられたこの言葉。
高尾山は、関東一の、パワースポット?・・そんなの、知らなかった。
その事実をこっそりと胸の中にしまいこみ声に出さずに復唱していると、さらにたたみかけるような発言が飛んできました。
「冬山はこわいからね、甘くみないほうがいいよ」
確かに季節は冬の最中。しかも冬至目前という最も過酷な条件です。
しかも翌日は早朝から一日中セッションという強行スケジュール。
本格的な登山をしたことがない私は周囲の制止に一瞬ひるみましたが、「ダイヤモンド富士が見てみたい」その純粋な好奇心の方が勝りました。この機会を逃したら、二度と見られないかも知れないし、なぜかそんな神妙な気持ちで黙々と防寒具を着込み、高尾山へと向かいました。
クリスマスを一週間後に控えた土曜日のお昼時。冬至まで、あと5日。
おそらく今日がダイヤモンド富士を目当てにやってくる登山客のピークなはず。
きっとものすごい数の人がいるにちがいない。
そう踏んでいた私の予想は高尾山口駅で意外な形で裏切られました。人が・・少ない。
登山道がぎゅうぎゅうで歩けないくらいすごかったよ。
奇遇にもつい先日、紅葉の時期に、この場所を訪れた友人からの情報とはあまりにもかけ離れたガランとした光景。
みんな、ダイヤモンド富士、見たくないの?富士山に太陽が落ちるんだよ?
そう心で叫びながらも不安がチラリと頭をよぎります。
もしかしたら、来たら必ず見られるものではないのかもしれない。
今日は見ることはできないだろう、という登山の玄人たちからの暗示なのだろうか。
でもなにはともあれ、そこに高尾山がある以上、あとは登るのみ。
ルートをしっかりと確認し、若干の暗雲が立ちこめる中こうして私の初登山は幕を開けました。
歩き出すとすぐに上着がいらなくなるほどに、その日はぽかぽかとした陽気でした。
冬山登山とはいえ、やはりそこは老若男女を惹きつけて世界一の登山客を誇る高尾山。
舗装された登山道は快適な一本道。すたすたと進むうちに第一の目的地である高尾山ケーブルカーの清滝駅が見えてきました。
しかしこの日はちょうど年末年始へ向けた車両点検の期間。ダイヤは30分に一本。
折しも前の列車は発車したばかり。そこで隣の乗り場からリフトに乗ることをすぐに決断します。
日本一の急勾配は帰りにとっておこう。きっと登るよりも降りるほうがスリリングで楽しいしね。
子供の頃からスキー場で慣れ親しんでいたとはいえ、地面が剥き出し、しかも紅葉に包まれた中でのエコーリフト体験はものすごいインパクトがありました。
キラキラとした色とりどりの葉っぱが、手を伸ばせば掴めそうなほど間近に迫ってきます。
後ろを振り返ると眼下に広がるのは東京を一望できるパノラマの街並み。
これは、圧倒的に美しいけれど、高所恐怖症の方は、ちょっと無理ではないだろうか。
リフトである以上、乗ったら降りられません。もし自分が、と想像するだけでスリリングな気持ちを味わうことができました。しかしぐいぐいと容赦なく、流れるように進むリフトは頼もしく安心して身を委ねてしまえばこれ以上快適な乗り物はありません。
自然の風の香りを肌に感じられることがなによりも最高に贅沢です。
さぁ、ここからが本当の登山です。気合いを入れ直して10分ほどどんどん登っていくと、少し疲れてきた頃にちょうど名物でもある、天狗の腰掛けたと云われるご神木がありました。
そういえば、高尾山口駅にも大きな天狗のオブジェがあったことを思いだし、高い高い木のてっぺんを見上げながらすぅっと深呼吸をして息を整えます。天狗もここでこうして休憩したのかもしれないな、と思うとついにんまりとしてしまいます。天狗という存在はどこかユーモラスで憎めません。
私にはなぜかピエロと堕天使を足したイメージがあります。誰にも縛られずひょうひょうと軽やかでいたずら好き。
同じことを感じたのか、偶然一緒にいた5歳くらいの女の子が突然楽しそうに笑いだしました。
お父さんであろう男性と思わず目を合わせ、どちらからともなく「天狗がくすぐったのかも」と言い合い、笑いました。
きっとあの瞬間を、天狗はしっかりと見て喜んでいたと思います。
ちょうど山頂まで約半分の場所に薬王院があります。
この本殿を通らなければ山頂に辿り着けないという造りは本当に素晴らしいなと驚嘆しました。
しっかりと気持ちを整えて山頂に臨む。その姿勢を自然と後押ししてくれているのだからありがたい限りです。
そして、ここから本当に空気がガラリと変わります。
結界の中へ通り抜けるような感覚が一瞬、身体を包みました。聖域。ふとそんな言葉がよぎります。
あとはもう山頂を目指すだけ。そんな清々しい覚悟に満たされて同じ目的を持つ人々が再び歩き出します。
そう、私たちには見届けたいものがこの先に待っているのです。
木で舗装された土の階段をずっと登った先に、ついに大きく開けた空間がありました。
午後3時。高尾山山頂に到着です。まだまだ小春日和の太陽は元気が良く、富士山へ沈む気配はありません。
しかし、すでに多くの人が思い思いの場所でのんびりとその瞬間を待っています。
すこしガスがかかってはいるけど、富士山もはっきりと目で確認できます。
今日はきっと、見えるはず。そう自分に言い聞かせて、私もみんなと同じように待つことにしました。
あと一時間以上ある「太陽待ち」。
山小屋風の売店に入り、美味しい甘酒をふうふうと頂きます。
疲れた身体にやさしい甘みがじんわりと染みこみます。ゆっくりと味わってから外へ出ると、さきほどよりもずっと多くのひとが太陽にカメラを向けて楽しそうに談笑しています。
この場所で一緒に日没を待つ仲間。不思議な連帯感と、初めて見るであろう光景に高揚した気持ち。
ただただ時が経つのを待つということが、こんなにも幸せだなんて。
「もうそろそろだね」
「今日は富士山のすこし右に落ちるはずだよ」
「ここがきっと綺麗に見えるよ」
みんながお互いに思いやり、様々な想いを伝え合います。今日来ることができて、本当によかった。
まだ肝心なものを見ていないのに、私の心はすでにいろんな感情であふれてしまいそうでした。